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見えてきた新しい視点

米国では「お子さんは?」という問いかけこそ日本と同様にあるものの、「いない」と答えるとそれ以上いろいろと質問されるという事はありません。



その代わり、「あなたは何をする人なの?」と聞かれるのです。「何もしない人でいたくない」と思い、Gさんは自分に問いかけて、そうして自分の中で出てきた答えは「大学に戻ろう」でした。

日本の大学へ辺裕して、米国の家族史の勉強を始めました。生殖医療で生まれた家族について研究を始めたのです。きっかけは「相手を変えれば」と医師から言われた事だったと言います。「それならば、社会の認識を変えてやりたい」と思ったのだと言います。

35歳になる直前、他の不妊の人はどうしているのかふと気になったGさん。不妊治療を受ける当事者の団体の座談会のようなものに参加したのだと言います。その時の参加者の1人から「子どもがいなくても人生楽しいよ」と言われたのです。その言葉がやけにGさんの中に入って来て、「ああ、そっか」と思えたのだと言います。

今までありそうでなかった新しい視点のように感じたと言います。そうして素直に「治療をやめよう」と思えたのです。

それからGさんは、流産を経験した事でやめてしまっていたバレエを10年ぶりに再開したのだと言います。

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価値観の違い

24歳の時に30歳のご主人と出会い結婚したGさん。27歳の時2度の流産を経験し、通院を始めたのだと言います。

Gさんが描いていたあこがれはフルタイムのママでした。ご主人も親族や友人の子をかわいがっていたこともあり、「きっといいお父さんになるんだろうな」と思っていたのだと言います。

Gさんが30歳の時、ご主人の米国転勤があり、1年ほど滞在しては数年間帰国するというパターンを何度が繰り返しました。米国にいる間は不妊治療を休み、日本から送ってもらう漢方薬で身体を整えるという生活を過ごしてたそうです。

日本に戻ると、その都度就職したり派遣で働いたり、その傍らで不妊治療も受けていたと言います。ご主人としては体に負担の大きい治療はしないという考えがあり、体外受精にはいい顔をしなかったのです。

当のGさん本人は体外受精をしてでも子どもが欲しい。ここで少しずつ夫婦間の意見が分かれ始め、次第に関係がギクシャクしてしまったのです。

治療に集中している最中、「タイミングの日」だというのに彼はお酒を飲み友人を家に連れて帰って来るなんて事もしばしば。

義母もGさんの両親も「孫は?」と聞いてくるだけで気持ちなんてお構いなし。彼の転勤でGさんは仕事を辞め、自分のやりたい事を出来ず、キャリアも積み重ねられないまま。流産した時には「体を動かし過ぎたのがいけなかったのだろうか」と子どもの頃から続けてきたバレエもやめたのです。それなのに、自分より後に結婚した友人たちはすぐに子どもに恵まれて、自分だけが何もかも置いてけぼり。ストレスはたまる一方で、先の事も見えない。また、排卵誘発剤の影響もあってか体調も良くなかったのです。

計3か所の病院を転々とし、最後の病院の主治医には「夫婦の相性が悪い。相手を変えたら出来るかもしれない」なんて言われショックを受けたと言います。

「いっそ分かれてしまえば楽になれるだろうか」と離婚まで頭をよぎりました。旅行に行って好きな事をしてという気分にもなれず、ただ治療に振り回されてしまっていたのです。

ところが転勤で再び米国で暮らすと体調が良くなるのです。すると察してかご主人の態度もまた違うのです。でも「キャリアもなく、治療はどうするの?日本に帰ったらいったいどうなる?」と不安は常に抱えたまま。

転機はGさんが32歳の時でした。ご主人の長期米国勤務が決まったのです。治療は一旦中止という選択をしましたが、結果的にそのまま治療を再開することはありませんでした。

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